佐屋街道(その2)『神守宿〜佐屋湊』
 
平成20年10月30日(木)

 佐屋街道は宮(熱田)で東海道と分かれ、岩塚、万場、神守、佐屋の4宿を経て、佐屋川、木曾川を川船で桑名まで下る脇往還であり、距離は陸路6里(約24km)、船路3里(約12km)の計9里(約36km)であった。

 「佐屋路」は古くから名古屋、熱田方面から津島方面への往来道で、徳川家康の大阪夏の陣進軍路、また尾張藩祖徳川義直の立田輪中鷹狩り通行路でもあった。

 宮と桑名を結ぶ七里の渡しの風雨による欠航や船酔いを嫌う多くの旅人で賑わった。街道は三代将軍徳川家光の上洛の帰路、寛永11年(1634)に開かれ、大名行列、伊勢参り、津島詣での人々、シーボルトや十四代将軍徳川家茂、明治天皇もこの道を通っている。
今回は、神守宿〜佐屋湊を歩くことにした。

「神守の一里塚」
 神守町信号交差点で西尾張中央道と交差する。『ようこそ津島へ、津島神社、天王川公園、まっすぐお進み下さい』の看板がある。
右手先に大木が見える。これが神守の一里塚。

 右手の大きな石積みの中に塚がある。右(北)側の塚だけが残り、塚にはムクノキの大木が一本あり、解説板がある。塚の土台の右手に『神守の一里塚』の標柱が立っている。
 解説板には神守宿の絵図、現在の町並みの写真、神守と津島の地図、付近の神社の写真や一里塚の写真などがある。

交差点の看板 神守の一里塚の標柱 神守の一里塚



「神守宿」
 街道は宿の道の突き当りを左に曲がる。左角には大きな町屋があり、右手、神守の宿場跡標柱の所からが本陣や問屋場が有ったといわれる。
 神守宿の所在は尾張の国海東郡、本陣1、脇本陣無し、問屋場2、旅篭屋12、人口812人、家数184、街並の長さ7町51間、次の佐屋宿まで1里半9町(約5km)。

     
神守宿の家並み

左に門がありそれに続いて母屋、切妻二階建て、格子作りで二階には小さな袖壁もある。
桝形にある家

北へ向かっている宿の道が突き当たって左(西)へと曲がる。この曲がり角にある家も大きな町屋でいわくが有りそう。


「地蔵堂縁起」
縁起には『お地蔵様と言う仏は、お釈迦さまがなくなられた後、この世にお出ましになり、六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上) に悩み苦しむ者たちを救い、また、幼くしてなくなった子供たちを守ってくださる、実にありがたい仏様であります。さて、この延命地蔵は、神守宿場時代 、宝暦八年(1758)に当寺に祀られ、文政三年(1820)には檀徒及び村人の厚い信仰により六角堂が建立され、ここに祀られた。人々は、村内安全・子孫繁栄 を願い、旅人は道中の安全を祈ったと伝えられる。その後、明治六年(1873)に改築、平成六年十二月に大改修され、現在も多くの人々から厚い信仰を受け ている。お地蔵さまのご真言、オンカカカビサンマエイソワカ 憶感山吉祥寺』とあった。
憶感山吉祥寺

神社と境内を共有する形で、神社の左にお寺がある。

『神守の宿場跡』標柱の解説
『江戸時代東海道の宮(熱田)の宿場から桑名(三重県)の宿場への「七里の渡し」にかわる脇街道として佐屋街道が利用されてい た。万場(名古屋市)の宿と佐屋の宿との間があまりにも長かったため、正保四年(1647年)に「神守の宿」が定められた。この宿場は古い憶感神社(「おかみ のじんじゃ」ともいわれていた)を中心に宿屋・商家がたちならび近くの村々の手助けによって宿駅の仕事を果たしていた。』
神守宿の家並み



「古川町の町並み」
古川のバス停からしばらくの間、右手に落ち着いた街道筋を思わせる家並みがある。背の低い平屋や或いはツシ二階、表には格子がはまっている。
 街道は左へとカーブし南西方向へと進み埋田町の信号交差点に至る。
旧街道を思わせる町屋 左手の細い道が本来の佐屋街道。
今は此処で途切れている。




埋田の追分



尾張名所図絵より
埋田の追分


現在の埋田の追分
常夜灯が残る。


常夜灯の後ろの一の鳥居は昭和34年の伊勢湾台風で上部が損壊し、現在は根石のみが残っている。


『津島街道埋田追分』の標柱があり、それに詳しい解説がある。

『埋田町のここは津島神社(天王様)の一の鳥居(昭和三十四年の伊勢湾台風で倒れて台石のみ)と常夜灯(夜どおしあかりをともすとうろう)一対、追分 (別れ道)をあらわす道標がのこっている。江戸時代ここから右は津島神社への道、左は佐屋の渡しへの佐屋街道と分かれる所で、江戸時代の終わりごろに は茶店などもあって通る人々でにぎわい、大正時代ごろまでは松並木が続いていた。また熱田から津島までの道を下街道とよんでいたが、いまは耕地整理や 新しい街づくりで道すじもかわり、ほとんどがすたれてしまっている。佐屋街道は熱田から岩塚、万場(ともに名古屋市)、砂子(大治町)、神守の宿(宿 場)を経て、津島追分から佐屋にいたり、佐屋川を船で下って桑名(三重県)へと続き、東海道の脇街道として熱田から桑名までの海上七里の渡し船を きらった人たちに広く利用されていた。徳川三代将軍家光や明治天皇の通られた跡や記録が街道各地にのこされている。』
「つしま道道標」

東面には『右 つしま天王みち』
北面には『左 さやみち』
南面には『東 あつた なごや道』






平成24年4月8日 中日新聞 朝刊で記事を見つけ

この部分追記




平成24年4月8日 中日新聞 朝刊



常夜灯の後ろの一の鳥居は昭和34年の伊勢湾台風で上部が損壊し、現在は根石のみが残っている。

平成20年10月30日撮影







愛宕追分から佐屋湊


「佐屋海道跡碑」

県道に出て南下、初めての信号交差点、内佐屋を渡った左先に内佐屋変電所脇に背の高い、茶色っぽい石碑が立っている。それには『佐屋海道址』と刻まれている。
愛宕追分 佐屋街道の町並



佐屋宿の町並 佐屋湊の図(尾張名所図絵) 現在の佐屋湊付近

「さや舟場道道標」
先に佐屋交差点が見えてきた。その手前左手に玉垣で囲まれた道標がある。
それには『左 さや舟場道』とある。

「佐屋代官所址解説」
碑の左に立派な黒い石に刻まれた佐屋代官所の解説がある。『わが佐屋は其の昔慶長二十年四月家康が大坂夏の陣に此処から船出し大勝した徳川方吉祥の地。藩祖義直もこの事を嘉し寛永十一年佐屋街道佐屋宿佐屋湊佐屋御殿を設け、更に承応二年船番所を置くに及んで佐屋は天下に知られるに至った。其のため元禄八年奉行所が、次で天明元年所付代官制実施の時にも最初の代官所となり、海東海西郡中の百九ヶ村七万四千石余の主邑として民政と治安の大任を司どりつつ、明治廃駅迄寛永文久と二度の将軍の上洛と明治帝の東幸還幸再幸の三度の大任をも果たした。其後駅路の変革と母なる佐屋川を失った佐屋には盛時を語る物も其れを知る人もない。われわれは今その代官所址に在りし日の栄光を偲びつつ其の事を石に刻し、永く後世に伝え語り継ぐことの資とする。』とあった。

「佐屋三里之渡趾碑」

交差点を渡った先左手のゲートボールが出来る広場の一角に『佐屋三里之渡趾』の碑がある。この辺りには浦高札が有り、旅人はこれを見ながら川舟に乗船し、桑名への三里の船旅に出発していった。


「水鶏塚由来記」
佐屋町教育委員会の建てた由来記には『元禄七年五月芭蕉翁が江戸から故郷伊賀の国へ帰る途中、佐屋御殿番役の山田庄左衛門氏の亭で泊まられた。そのあたりは非常に閑静な幽地で昼さえ薮のほとりで木の間がくれに水鶏(くいな)が鳴いた。翁がこられたと聞いて遠方からも俳人集り千載不易の高吟が続いた。そのときうたわれた初の句が、

   水鶏鳴と 人の云えばや 佐屋泊    はせを

である。翁逝って四十余年後さきに坐を共にした人達により、翁がうたったこの現地でそのときうたった句を石にきざみこの碑がたてられた。とき正に享保二十年五月十二日のことである。昭和三十五年大字佐屋故黒宮庸氏の御遺志によってこの水鶏塚(土地共)は黒宮家から佐屋町へ寄贈された。(昭和六十年三月二十六日 佐屋町文化財指定)』とあった。





















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