佐屋街道(その1)『金山追分〜神守宿』
 
平成21年01月20日(火)

 佐屋街道は、寛永3年(1626)と11年(1634)の三大将軍徳川家光の通行を契機として整備が進められ、寛文6年(1666)には幕府の道中奉行が管理する官道に指定された。この街道は、熱田(宮)宿と桑名宿を結ぶ七里の渡しの風雨による欠航や、船酔いを嫌う多くの旅人が行き交い、東海道の脇往還として非常に賑わっていた。商用や社寺参りの人々、参勤交代の大名行列、さらにはオランダ商館のシーボルトや十四代将軍家茂、明治天皇もこの道を通行している。永年にわたり日本の幹線道路網の一部を担ってきたこの街道も、明治5年(1872)の熱田と前ヶ須新田(現:弥富町)を結ぶ新道の開通によりその役目を終え、現在では地域の幹線道路として親しまれている。
(中川福祉会館前の解説板より)
今回は、金山〜神守を歩くことにした。(歩数計:34,000歩)

金山の追分

 宮の宿の伝馬町にある道標から東海道と別れ、熱田神宮の西を通ってここまでは、美濃路と重複している。金山新橋交差点の南西角の歩道に道標が立っている。これが美濃路と佐屋街道との追分である。
国道19号線金山新橋交差点から西へと延びるのが佐屋街道である。
今回のスタート地点はここ金山の追分けとする。



「佐屋街道道標解説板」

道標のそばにこの道標の解説板(左の写真)がある。

 佐屋街道は、江戸時代初期、東海道の脇街道として開かれたもので、海路の「七里の渡し」を避けた道である。道標は文化4年(1821)佐屋街道の旅籠仲間が、伏見通りから尾頭橋へ抜ける佐屋街道への分岐点にあたるこの地に建てたものである。戦災に遭い破損したが、その後修理された。道標には
   「東 右 なごや 木曽 海道」
   「西 右 宮海道 左 なこや道」
   「南 左 さや海道 津しま道」
   (右の写真)
   「北 文政 辛巳年 六月 佐屋旅籠屋中」
と刻まれている。
               名古屋市教育委員会

交差点の看板 金山の追分け道標



「尾頭橋」

 尾頭橋は古くから掘川に架けられていた掘川七橋の一つで佐屋街道の橋である。
 その歴史は掘川開削時までさかのぼる。関ヶ原の合戦があった慶長5年(1600)頃には、既に熱田から北上し、現在の瓶屋橋北辺りから西行wし、津島(佐屋)に出る「津島道」があった。慶長15年(1610)掘川が掘られると、川を渡る「渡船」が必要となり、「亀屋河渡」(瓶屋橋北辺り)が設けられた。
 幕府による東海道整備御、「七里の渡し」を利用する旅人がふえるにつれて、寛永一一年(1634)頃から東海道の陸路として、「津島道」の改修が始まった。寛文六年(1666)には脇往還としてさや街道が完成し4つの宿場が置かれた。
 この時、「亀屋河渡」瓶屋橋北辺り)から岩塚宿にでるまで、旧会堂から北へ約300メートルの水田の中に新道が開かれ、掘川には新しく橋が架けられた。これが尾頭橋である。
 この辺りの地名を取り「尾頭橋」と名付けられたが、もともと新道「佐屋街道」に架かる橋のため「新橋」とも呼ばれていた。今もそのなごりがバス停「新橋通」の名で残っている。
(欄干の説明板より)


     
掘川に架かる尾頭橋 欄干の説明板(新橋) 尾頭橋商店街




東海道新幹線をくぐり、すぐ右側に唯然寺がある。この寺のフェンスの中に一里塚がある。
更に西に進むと、八幡本通りの左手に中川福祉会館があり、その前に佐屋街道碑と解説板がある。

唯然寺 津島街道一里塚碑
(五女子一里塚)
佐屋街道碑
(中川福祉会館前)




街道の歩道に埋め込まれたタイルのデザイン画

歩道に何カ所か埋め込まれていた。

歩道に埋め込まれたタイル 歩道に埋め込まれたタイル



「中川運河長良橋」
橋野掛け替え工事中で、隣に仮橋が架けられている。

掛け替え工事中の長良橋から名古屋駅方面を望む 新長良橋の欄干




「JRと近鉄の下をくぐる」
 先へ進むと松葉町交差点。その向こうに鉄道の高架橋が見える。あおなみ線、JR関西本線、近鉄名古屋本線が通っている。これをくぐったすぐ右が近鉄烏森駅。

松葉町 烏森駅 旧街道時代は此の辺りは松並木であった
名残かな?



岩塚宿

 岩塚石橋と言う名の信号交差点やバス停がある。この石橋(昔は水路を渡る石橋があった)が昔の宿場への入口だった。
 岩塚宿は庄内川の向こうの万場宿と併せて一つの宿の機能を果たしていた。人馬の継立も月の前半と後半に分け、渡し舟の管理は万場宿が行っていた。  本陣はあったが脇本陣はなく、小さな宿場だった。
 宿場の中ほどの道を南に少しはいると遍慶寺がある。ここは戦国時代の初め岩塚城があったところといわれ、城址の碑がある。境内のイブキの巨木は見事。

遍慶寺
山門脇に岩塚城址の碑
岩塚城址の碑 遍慶寺境内のイブキの巨木


八幡社 社殿は茅葺であった名残か? 案内標識


街道の面影を残す古い大きな町屋、ツシ二階で壁は土壁。 岩塚宿の図
この堤防が渡し場
現在の様子



万場宿

 万場宿も本陣だけで脇本陣はなく旅籠は十数軒という比較的小さな宿場だった。

 橋を渡り終えたら直ぐに左へ折れる。県営住宅を右に見て下流へと進むと土手の所に鳥居、祠や常夜燈が2基、万場宿跡の解説板などがある。
解説板には
 万場宿は、佐屋街道「万場ノ渡」をはさみ、岩塚宿(中村区)と向かいあって、寛永11年(1634)御伝馬所に指定され宿場が置かれた。この両宿場は近距離にあったため、制度上は一宿と見なされ、月の上半月を万場宿が、下半月を岩塚宿が交代で人馬継立の役務を行った。明治5年(1872)御伝馬所は廃止された。
とある。

万場大橋の欄干 万場宿跡に移設された標識 万場宿跡説明板


堤防から見た万場宿 旧街道の雰囲気を残す建物
(玉石を積んだ土台に背の低い二階、黒板壁)
旧街道の雰囲気を残す建物


ち丶の観音覚王院 ち丶の観音覚王院 国玉神社


光園寺の巨大な石灯籠 光園寺) 万場宿の西のはずれ



「名古屋高速万場線をくぐる」
 光園寺を過ぎると街道は北西方向に斜めに進む。万場の信号交差点で名古屋高速5号万場線をくぐる。
交差点を渡って更に北西へと進むと、右手に浅間神社がある。この神社を過ぎると名古屋市中川区から海部郡大治町に入る。

名古屋高速万場線をくぐる 浅間神社


新川の砂小橋を渡る 名古屋市中川区から海部郡大治町に入る 名古屋市中川区から海部郡大治町に入る


旧佐屋街 旧佐屋街道高札場跡 旧佐屋街道高札場跡
角の住宅の門の脇、カーブミラーの影に立っている



「東名阪自動車道をくぐる」
今度は稲屋の信号で東名阪自動車道をくぐる。歩いてきた街道は県道117号西条中川線で、やがて西から南へと大きくカーブして、交通量の多い道に交差する。ここで左折して西へと向かう。県道68号名古屋津島線と合流する。間も無く福田川の秋竹橋を渡る。橋を渡ると海部郡七宝町に入る。

福田川の秋竹橋 ここから七宝町



碑の上部にローマ字でShippoyaki Toshimaとある
























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