津島上街道(その1)
 名古屋から新川橋
平成20年02月04日(月)

 津島上街道は、名古屋城下から枇杷島橋を渡り、新川橋で岐阜・大垣へ向かう美濃街道と分岐し、甚目寺観音の前を通り、木田、勝幡を経て、津島の街に入り橋詰めで津島神社参宮道につながる街道。
 今も津島上街道沿いには、旧街道らしい街並みや懐かしい風景が広がり、多くの史跡も残っています。

全行程を三回に分けて歩くことにした。



本町通りと京町通りの交差点
   道標  東面・・東ぜんこうじみち 西面・・西みのじ 南面・・南あつた 北面・・北おしろ
      ここが名古屋へ続くすべての道の起点である。
      北へ進めば名古屋城の堀を渡る本町橋でお城に入る事が出来る。


津島上街道起点 本町通りと京町通りの交差点 京町通り(東から西)

京町通りを西に向かって、国道22号線を渡り、掘川を五条橋で渡る。掘川沿いを北に行き、再び22号線を渡り、掘川に架かる大幸橋を左に曲がる。
  22号線に平行して、庄内川に架かる枇杷島橋まで続く。街並みは近代化され、古い街道の面影は少ない。


左の五条橋の説明板には、次のように書かれている。

 かつて清須城下の五条川に架けられていた橋を、清須越し(慶長15年(1610)より行われた清須よりの町ぐるみのふぃっこしをいう。)の際、この地に移され橋の名前もこれに由来するといわれる。
 元は木橋であったが、昭和13年(1938)にコンクリート橋に架けかえられた。元の橋にあった擬宝珠には「五条橋、慶長七年壬刀六月吉日」の銘があり、現在は名古屋城に保存されている。
五条橋 五条橋の説明版

江川一里塚跡付近 押切町商店街

立て場・白山神社界隈。
 白山神社の前は、立て場であった。 立て場というのは、人夫が杖を立てて休息する所からいわれ、宿と宿との中間にあって、旅人のために茶店等が設けられた。
 白山神社について、『尾張名所図会』は、「社内に榎木一株あり、是即白山の神木なれば、榎権現の称ここに起こる。」と記している。 神社の西側を流れていた笈瀬川に権現橋という石橋があった。現在、川も橋もないが、かつての橋の欄干は白山神社の垣根の一部として使われている。
美濃路の信長。
 織田信長は1534年、現在の名古屋城二の丸跡にあった那古野城で生まれたいう。
 21歳で清洲城に移るまで、この辺りを駆け回っていた。美濃、斎藤道三の娘、濃姫を妻として迎えたのも那古野城である。
 清洲城に移ったあと1560年、今川義元を迎え討つため、若き日の豊臣秀吉等を引き連れ桶狭間の戦いに出陣、この白山神社で戦勝祈願し、凱旋したのはこの街 道である。
 美濃路まちづくり推進協議会
白山神社

白山神社の塀に使われている
権現橋の欄干
”手焼きおかきや”の看板 旧街道の面影を残す町家

八坂神社 八坂神社説明 現在の街並み

屋根神様。
 屋根神様にはたいてい三つの神社のお札を祀っている。大部分は津島神社・秋葉神社・熱田神宮の三社で、熱田神宮が地元の氏神に替わることもある。
 それぞれ疫病除け、火難除け、武道長久祈願といった意味が込められている。  屋根神様は、名古屋を中心とに、尾張に広まった信仰だが、戦前は次第に取り壊され、今では数えるほどしか残っていない。美濃路など古い街道筋で当時の面影を偲ぶことが出来る
 美濃路まちづくり推進協議会
屋根神様 屋根神様

清音寺。
 曹洞宗。治承三年(1179)時の太政大臣藤原師長は、平清盛のため尾張国井戸田に流された。師長は村長横江氏の娘を寵愛したが、後に赦されて都に帰るとき、形見に守本尊の薬師如来と白菊の琵琶を残した。しかし、娘は別れを悲しみ、ここで身を投じたという。
 その後この地を琵琶島と名付け、娘の菩提を弔うためこの寺を建立した。寺号の清音寺は娘の法号清音院から取られている。
 名古屋市教育委員会
旧街道の面影を残す町家
名古屋市西区枇杷島
清音寺

ここの史跡説明板には、次のような記述がある。

 庄内川左岸には3つの大きな河原があった。成願寺河原、名塚河原とここ枇杷島河原である。枇杷島河原は此のあたりから下流、中村区稲葉地にかけて広がる 大きな河原であった。清洲(当時は清須)や名古屋(当時は那古野)を始め、近在では河原といえば、枇杷島河原のことであったという。
 茶せん髷に、腰へいろいろなものをぶら下げた吉法師時代の信長は、近在の子供達とこの河原でよく遊んだという。そのなかに中村の稚児集団があり、日吉丸 (後の秀吉)もその集団の中にいた。彼等は川狩などして魚をとり、枇杷島や清洲、津島まで売りに行ったという。
旧枇杷島橋跡モニュメント

名古屋鉄道本線の東枇杷島駅近くで線路の高架をくぐり、そのまま庄内川の堤防にあがると間もなく枇杷島橋。

枇杷島橋 枇杷島橋の欄干にある飾 枇杷島橋の欄干にある飾
旧枇杷島橋の図

枇杷島橋を渡ると清須市(旧西枇杷島町)です。
江戸時代の道標(美濃街道道標)には、
 東面・・西ハつしまてんのう きよす宿 みち
 西面・・ひがしハ とうかゐだう なごや道
 北面・・いわくら道
 南面・・文政十年 丁亥七月吉日
  とそるされている。

 寄り道
  六軒神社、西枇杷島問屋記念館、かんしょ、
  土器野神社(瑞正寺手前交差点左に入る)津島道道標


枇杷島橋を渡った所
橋詰神社
高照寺 六軒神社

屋根神様をまつった古い町屋、「かんしょ」といわれる狭い路地も所々に残り旧道の面影を残している。

旧街道(西枇杷島付近) 美濃路の館 旧街道(西枇杷島付近)

木造三階建て「麦」。
西枇杷島町で戦前に建てられた木像三階建ての建物はここだけ。1891年に建てられた。
 現在はお好み焼きの店として使われている。
 開口部はすべて格子戸であったが現在は二階に格子戸の一部が残るだけである。外壁はほとんど改修されているが、建てられた頃の姿を想像するのも楽しい。
 1995年の第一回西枇杷島町まちづくり文化賞を受賞。
 美濃路まちづくり推進協議会
木造三階建ての建物 旧街道(西枇杷島付近)

屋根神様 旧街道(西枇杷島付近)
かんしょ
旧街道(西枇杷島付近)

日本一の宝塔。
 瑞正寺境内に高さ4.5bで日本一といわれている宝塔がある。この北方に尾張藩の刑場があり、処刑された罪人の菩提を弔うため、1815年に建てられた。
 二人の有志により発起され、自らは家財をなげうち、8年をかけて成就したもの。江戸で作られ、船で運ばれ、新川をさかのぼった。
 以来宝塔様として知られ、処刑者がこの前を通るときは合掌礼拝し、その後処刑されたという。
 美濃路まちづくり推進協議会
瑞正寺 瑞正寺・宝塔

瑞正寺の手前の交差点を左に曲がった突き当たりに土器野神社ある。そこに馬島道の道標が移されている。

土器野神明社にある看板 土器野神明社にある道標
従是馬島明眼院道
土器野神明社にある道標
是よりまじ満道

新川橋を渡ったところに小さな公園があり、新川と新川橋に関する案内板がある。
 公園内にかつての美濃街道と津島上街道との分岐点を示す道標が移されている。
 かつての清洲城下にあった五条橋欄干の親柱を譲り受け、新川橋の欄干としたもので、擬宝珠形をした石材に「左つしま」と彫られている。もう一つ道標が移され ていて、正面に「右つしま道」、側面に「左なごや」、裏面に「天明八戌申二月」と彫られている。
 新川橋がかつての津島上街道と美濃路との分岐でした。


新川橋 津島街道道標説明版 津島街道道標

新川橋親柱説明板 新川橋親柱
大正二年二月架橋
新川橋親柱
しんかわばし
新川橋親柱
新川橋

津島街道道標説明板 津島街道道標
天明八戊申二
津島街道道標
右 津し(ま)
津島街道道標
左 なこ(や)

新川開削頌徳碑説明板 新川開削頌徳碑 新川開削の説明版





















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