今回のコース
近鉄桑名駅ーー→(八間通)ーー→海蔵寺ーー→(寺町通)ーー→本統寺ーー→歌行燈句碑ーー→
七里の渡し跡ーー→蟠龍櫓ーー→九華公園ーー→桑名城址ーー→鎮国守国神社ーー→春日神社ーー→
歴史を語る公園ーー→石取会館ーー→京町見付跡ーー→近鉄桑名駅
海蔵寺(薩摩義士墓所)
木曾三川の難しい治水工事は宝暦五年(1755)完成したものの巨額の出費と多大な犠牲者の責任から薩摩藩工事総奉行の
平田靭負(ゆきえ)が自害。
寺には靭負の供養塔や市指定文化財の薩摩義士(靭負以下24名)の墓所がある。
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海蔵寺 |
教育委員会指定史跡の案内 |
宝暦治水薩摩義士の解説 |
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宝暦治水薩摩義士の碑 |
薩摩義士の墓所 |
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桑名別院(木銃寺)
開創400年(1596)の歴史を刻み、徳川家茂や明治天皇が宿泊した古刹である。桑名御坊とも称され俗に「ごぼうさん」の名称で市民に親しまれている。
芭蕉が「野ざらし紀行」の旅の折、この地で詠んだ
「冬牡丹 千鳥よ雪の ほととぎす」
の句碑(冬牡丹句碑)がある。
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寺町通りアーケード入り口 |
桑名別院(木銃寺)解説 |
桑名別院(木銃寺)山門 |
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冬牡丹句碑 |
「冬牡丹 千鳥よ雪の ほととぎす」 |
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旧東海道(本町辺り)
<通り井跡> 桑名は地下水に海水が混じるため、寛永3年(1626)に町屋川から水を引いた水道をつくり、
町内の主要道路の地下に筒を埋め、所々の道路中央に正方形の升を開けて、一般の人々が利用した。これを「通り井」と言う。
昭和37年(1962)工事のため道路を掘っていて、「通り井」跡の一つが発見された。現在は道路面に「井」と書いた石がはめこまれている。
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通り井跡解説 |
「歌行燈」という行灯型の看板が出ている。ここは鏡花の「歌行燈」のもう一つの舞台である「うどんや」のモデルといわれている。 |
桑名城の城壁が残る |
本陣・脇本陣
船津屋はかっての大塚本陣の跡である。明治43年の泉鏡花の小説「歌行燈」の舞台、「湊屋」はここ船津屋がモデルになっている。
船津屋の隣りの料理屋「山月」は駿河屋脇本陣跡である。玄関口に石碑があった。
勢州桑名に 過ぎたるものは 銅の鳥居に 二朱の女郎
と俗謡に唄われた有名な句が刻まれている。
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船津屋 |
大塚本陣の跡(船津屋) 駿河屋脇本陣跡(料理屋「山月」) 解説 |
料理屋「山月」 |
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<歌行燈句碑>
明治42年(1909)、泉鏡花(1873~1939)は桑名を訪れ、ここを舞台に名作『歌行燈』を書き上げた。
後に「歌行燈」を戯曲化した久保田万太郎が詠んだ
「かはをそに 火をぬすまれて あけやすき」
の句碑(万太郎句碑)が、船津屋の表塀に建てられている。
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歌行燈句碑の解説 |
「かはをそに 火をぬすまれて あけやすき」 |
七里の渡し跡
熟田の宮から桑名まで海路で七里あったことから「七里の渡し」と呼ぱれている。
当時は東海道42番目の宿場町として大賑わいを見せ、ここにある大鳥居はこれより伊勢路に入ることから「伊勢の国一の鳥居」と称されている。
大鳥居は伊勢神宮遷宮ごとに建て替えられる。
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蜷龍櫓(ぱんりゆうやぐら)
川口町にある七里の渡しに面して建てられた河口のまち桑名を象徴する蜷龍櫓。
かっては東海道を行き交う人々が、必ず目にした桑名のシンボルを忠実に復元したもので、当時は航海の監視として据えられたと考えられる。
歌川廣重の浮世絵「東海道五十三次」でも、海上の名城と謳われた桑名を表す為にこの櫓を象徴的に描いている。
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七里の渡し跡から桑名城址方向を望む(左 蜷龍櫓、右 伊勢の国一の鳥居) |
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九華公園
昭和3年(1928)当時の桑名町から桑名藩ゆかりの松平定信没後100年を記念して桑名城の本丸跡
と二の丸跡を利用して造られた公園。
九華公園の名は「九華扇」(きゅうかおおぎ)という中国の築に、桑名城の別名「築城」と「九華」(くはな)
をかけて付けたと言われている。
桜、つつじ、花菖蒲の咲く頃には多くの人々が訪れ、市民の憩いの場としても親しまれている。
園内の「鎮国守国神社」で毎年5月2日、3日に例祭があり、金魚祭りで賑わう。
本多忠勝
幼少より徳川家康に仕えて多くの戦功を立て、関ケ原の戦功により桑名十万石に転封(てんぽう)、
五十数度出陣して一度も戦傷を負わなかったと伝えられている。
忠勝は桑名城を海に向かって開いた城に修築し、町に流れ込む川の流れを変え、城下町、宿場町、
港町という三つの顔を持つ壮大なまちづくりを行った。
現在の桑名市街の形はこの時に築かれたものである。
桑名城跡
揖斐川に面した川口樋門から南天手描に至る全長約500mに亘り、創建当時の石垣が現存し市の文化財に指定されている。
積石の状態は野面はぎ、打込はぎの2つの技法による乱積。(かっての三の丸周辺)
鎮国守国神社(ちんこくしゆこくじんじゃ)
文致6年(1823)白河から桑名への移封(いほう)に伴い桑名城本丸に移り、松平定綱5代城主(鎮国公)、老中松平定信(守国公)を祀り、
明治維新後しぱらくは本丸の外に移っていましたが、明治40年(1907)本丸跡の現在地に移った。
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春日神社(かすがじんじや)
桑名の総鎮守、「桑名神社」「中臣神社」からなり、両社とも延喜式に記載された古い神社。
石取祭は、桑名神社の大祭「比与莉祭」の神事の一つが独立したものであり、桑名神社神楽太鼓の叩き出しを合図に始まる。
鎌倉時代に奈良から春日大明神を勧請して合祀、「春日さん」の名で親しまれ、県指定文化財の青銅鳥居が建っている。
春日神社青銅鳥居・しるべ石
大きな通りを越えると春日神社(桑名神社)の青銅鳥居が右手に見える。
「桑名に過ぎたるものは銅の鳥居に二朱女郎」
とうたわれた有名な鳥居である。
春日神社・志るべい志(しるべ石)
「迷い児石」とも呼ぱれ、左に「たづぬるかた」右に「おしゆるかた」と彫ってある。
尋ね人が捜している子供の特徴や服装を書いて貼り、心当たりの人は子供のいた場所などを書いて貼る。江戸時代の「迷子掲示板」である。
この「しるべ石」は桑名の港や町が大勢の旅人で混雑していたことを今に伝える珍しい石柱である。
現在の石柱は明治18年(1885)のものである。
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春日神社青銅鳥居 |
志るべい志 |
たづぬるかた |
おしゆるかた |
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春日神社 旧東海道(左 京へ) |
春日神社山門 |
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桑名神社(拝殿左側) |
拝殿正面 |
中臣神社(拝殿右側) |
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歴史を語る公園
堀端に沿って小公園があった。日本橋から三条大橋まで東海道五十三次を表わした遊歩道になっている。
途中に桑名宿の案内板があった。
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>歴史を語る公園 |
桑名宿から江戸方面を見る |
桑名宿から京方面を見る |
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石取会館
「日本一やかましい祭り」石取祭が体感できるこの施設には、漆(ぅるし)仕上げの祭車、天幕などが修復、展示されている。
江戸時代末期の作で、当時の技術の粋を集めた作である。
春日神社の石取祭は「桑名石取祭の祭事行事」として、国重要無形民俗文化財に指定(平成19年3月7日)されている。
桑名市博物館
「寛攻の改革」で知られる松平定信(号:楽翁)が描いた「朱達磨」などの絵画をはじめ、桑名潘や萬古焼関係の収蔵品が展示されている。
独白の企画展示もあり桑名の郷土文化を学べる博物館。
桑名市博物館の前に道標が移設されている。
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京町見附跡
見附とは櫓(やぐら)を設け番兵を置いた、いわゆる城門のこと。
ここは江戸時代までは桑名城下の西北の出入り口にあたっていた。市内には、三崎、宮津屋(よっや)、七曲にも見附門が設置されていた。
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京町見附跡 |
東海道標識 |
京町公園 <桑名市市制施行時市役所跡> |
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おまけの写真(歩道の埋め込み)とマンホールの蓋
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歩道の埋め込み 七里の渡し |
歩道の埋め込み 七里の渡し |
マンホールの蓋 蛤 |
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マンホールの蓋 七里の渡し |
桑名の千羽鶴 一枚の紙に切り込みを入れ2羽から97羽までの繋がった鶴を折る技法は、「桑名の千羽鶴」と
呼ぱれ市の無形文化財になっている |
歩道の埋め込み
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歩道の埋め込み 七里の渡し |
歩道の埋め込み
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歩道の埋め込み
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歩道の埋め込み
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歩道の埋め込み
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