東海道・宮の宿を歩く
 
平成21年03月31日(火)

 宮宿(みやじゅく、宮の宿、熱田宿)は、東海道五十三次の41番目の宿場。中山道垂井宿にいたる脇街道美濃路や佐屋街道との分岐点でもあった。
 一般には宮の宿と呼ばれることが多かったが、幕府や尾張藩の公文書では熱田宿と書かれている。

 場所は現在の名古屋市熱田区にあたる。東海道でも最大の宿場であり、天保14年には本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠屋は248軒を擁し、家数2924軒、人口10,342人を数えたという。古くからの熱田神宮の門前町、港町でもあり、尾張藩により名古屋城下、岐阜と並び町奉行の管轄地とされた。
 桑名宿とは東海道唯一の海路である七里の渡しで結ばれていた。現在も、折りにふれて桑名〜宮間を遊覧船で渡る「現代の七里の渡し」が行われる。また、桑名宿のひとつ先の四日市宿まで直接結ぶ十里の渡しも運行されていた。

今回は、宮の宿を歩くことにした。<歩数計:33,900(美濃路を含む)>



今回のコース

名鉄神宮前駅ーー→旧東海道・宮宿東の入り口ーー→姥堂・裁断橋ーー→徳川家康幼時幽居地ーー→

ほうろく地蔵ーー→道標(東海道と美濃路の追分)ーー→七里の渡し跡ーー→道標(東海道と美濃路の追分)

に戻り、そのまま美濃路を歩く



東海道・宮の宿 東の端付近

 東海道を西に向かい、新掘川の熱田橋を渡り、名鉄常滑線のガードを抜けたすぐ右側に一本木の植わった緑地帯がある。「宮地区の歴史」の案内板があった。
 この辺りにかって伝馬町の一里塚があったという。

 案内板によると
 宮地区の歴史  熱田社の門前町である宮地区は、佐屋・美濃・木曽の諸街道への重要な分岐点になっていたことから、経済情報・文化の中心都市的役割を担い、東海道五十三次の41番目の宿場町「宮宿」として古くから栄えたところでした。また、東海道五十三次のうち唯一の海上路で桑名までの距離が七里だったため「七里の渡し」と呼ばれ熱田社の門前町であることから「宮の渡し」とも呼ばれていました。江戸時代には参勤交代で通行する諸大名の宿泊施設が建ち並び、お伊勢参りの流行によって、さらに人の往来が活発になり東海道一のにぎわいを見せていました。

新掘川・熱田橋 宮の宿 東の入り口 名古屋市教育委員会案内板



姥堂・裁断橋

 左ビルの玄関に復元裁断橋がある。
(裁断橋=宮宿東の精進川に架かっていた橋、秀吉の小田原攻めに従軍し18才で病死した堀尾金助の母が供養のために壊れていた裁断橋を架け替えた。橋の擬宝珠には母が子を思う名文が刻まれ、道行く人に感銘を与えた)
 裁断橋の袂にあった姥堂は(死者の衣類を剥ぐ鬼婆)同ビルの二階に移されている。
 玄関右には1800年頃、宿場の女中が謡い始めたとされる都々逸発祥之地の碑がある。
     
姥堂 裁断橋(尾張名所図絵)
姥堂の解説 裁断橋の解説

     
ビルの2階が姥堂になっている
(上)姥堂の銘額 (下)裁断橋
旧裁断橋桁石 都々逸発祥之地の碑

     
徳川家康幼時幽居地 徳川家康幼時幽居地 旧東海道はR247で分断




ほうろく地蔵

 R247を歩道橋で渡り旧東海道を進む、突き当たりに出る。正面にはほうろく地蔵。手前左側隅(T字路の東南隅)に古い道標がある。
 この地は佐屋街道との分岐点であり,宮から桑名まで(海路七里),船の苦手な人たちが佐屋街道で陸路を佐屋まで進み、三里の渡しを利用した。
 突き当たりを左に行くと七里の渡し、右が佐屋街道である。

     
R247を渡り突き当たりに
ほうろく地蔵がある
ほうろく地蔵 ほうろく地蔵




道標

 案内板によると
 ここ熱田伝馬町の西端は、江戸時代、東海道と美濃路(又は佐屋路)の分岐点で、重要な地点であった。この道標の位置は(T字路の東南隅)は、建立当時(1790年)そのままである。四面には次のように刻まれている。
     東面に   北  さやつしま道
             同  みのち
     南面に   寛政庚戌年 (注1790年の建立)
     西面に   東  江戸かいとう
             北  なこやきそ道
     北面に   南  京いせ七里の渡し
             是より北あつた御本社貮丁道
 なお、この三差路の東北隅には、これより32年前(宝暦8年)に建立された道標があった。表示は「京いせ七里の渡し」以外はこれと同じである。戦災で破損したが復元され、10mほど手前の北側にある。

                                  名古屋市教育委員会


     
道標の

東面に   北  さやつしま道
        同  みのち
南面に   寛政庚戌年
西面に   東  江戸かいとう
       北  なこやきそ道
北面に   南  京いせ七里の渡し
        是より北あつた御本社貮丁道
東南隅にある道標(ほうろく地蔵の向い側) 道標の刻字


七里の渡し舟着場跡

 案内板によると
 江戸時代、東海道の宿駅であった熱田は「宮」とも呼ばれ、桑名までの海路「七里の渡し」の舟着場としても栄えていた。寛永2年(1625)に建てられた常夜灯は航行する舟の貴重な目標であったが現在は復元されて往時の名残りをとどめている。安藤広重による「東海道五十三次」の中にも、宮の宿舟着場風景が描かれており、当時の舟の発着の様子を知ることができる。


<七里の渡しの時の鐘>

 案内板によると
 延宝四年(1676)尾張藩主光友の命により熱田蔵福寺に時の鐘が設置された。正確な時刻を知らせるこの鐘は熱田に住む人びとや東海道を旅する人びとにとって重要な役割を果たしていた。
 昭和20年の戦災で、鐘楼は焼失したが、鐘は損傷も受けずに今も蔵福寺に残っている。
 熱田の古い文化を尊ぶ市民の声が高まり、往時の宮の宿を想い起こすよすがとして、この公園に建設したものである。
 舟着場跡の眼前には堀川に新堀川が左から合流し、海へ向かってまっすぐに伸びている。



<熱田湊常夜灯>

案内板によると
 この地は宮(熱田)の神戸の浜から、桑名までの海上七里の航路の船つき場跡である。
 常夜灯は寛永二年(1625)藩の家老犬山城主成瀬正房(正虎)が、父正成の遺命を受けて熱田須賀浦太子堂(聖徳寺)の隣地に常夜灯を建立した。その後風害で破損したために承応三年(1654)に現位置に移り、神戸町の宝勝院に管理がゆだねられた。寛政三年(1791)付近の民家からの出火で焼失、同年、成瀬正典によって再建されたが、その後荒廃していたものを昭和30年ほぼ原位置に復元された。

                          名古屋市教育委員会

     
七里の渡し 船着き場(尾張名所図絵)

宮の渡し公園 宮の渡しの時の鐘 熱田湊常夜灯


宝勝院 宝勝院 蔵福寺





おまけの写真(歩道の埋め込み)


歩道の埋め込み/TD> 歩道の埋め込み/TD> 歩道の埋め込み


歩道の埋め込み 歩道の埋め込み 歩道の埋め込み


歩道の埋め込み 歩道の埋め込み




道標(東海道と美濃路の追分)まで戻り、そのまま美濃路を歩く事にした。




















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