東海道(その7)

池鯉鮒ちりゅう(知立)宿
平成23年01月27日(木)

  
池鯉鮒ちりゅう宿
 東海道五十三次の39番目の宿場町。江戸から84里17町7間。「池鯉鮒宿」は、当時の挙母、刈谷、西尾に通じる西三河の交通の要として栄えた。  三河の名社知立神社のある宿場でした。
 江戸時代、知立神社の御手洗池には多くの鯉、鮒がおり、池鯉鮒宿と名付けられた。
 旧街道には今も170本の松並木が茂り、馬市の碑も建っている。三河木綿の集散地であり、その運搬にと、馬市が建つようになった。街道から北へ入った無量寿寺には、在原業平の杜若伝説にまつわる史跡が多数残されている。


本日のコース(1)
岡崎〜来迎寺



八帖往還通へ



八帖往還通の町並み



八帖往還通りの町並み
突き当たりを右へ



八帖蔵通




八帖蔵通




八帖往還通の突き当たり
ここを右に曲がる



この辺りに旧東海道の矢作橋があった
今は、突き当たりのR1に矢作橋が写されている



矢作橋
橋を渡り、R1を横切り旧東街道へ



誓願寺



誓願寺十王堂
源義経と姫の遺品が安置されている


誓願寺十王堂



芭蕉句碑
「古池や 蛙飛び込む 水の音」



浄瑠璃姫の墓




浄瑠璃姫の墓

矢作の里の兼高長者の娘浄瑠璃姫が源義経を慕うあまり、 菅生川に身を投じたので、長者はその遺体を誓願寺に埋葬し、十王堂を再建して義経と浄瑠璃姫の木造を作り、義経が姫に贈った名笛「薄墨」と姫の鏡を安置した。


しばらく(20分ぐらい?)旧東海道を歩きR1に合流

左側の道が今歩いてきた旧東海道     右側がR1
振り返って岡崎方面を見たところ



R1をしばらく(40分ぐらい?)歩いて岡崎市から安城市に入ったところでR1と別れ、右側の旧東海道へ



15分ほど歩いた右手に熊野神社
尾崎町


予科練之碑



予科練之碑



鎌倉街道跡の案内板
1192年(建久三年)鎌倉に幕府が開かれると、京都と鎌倉の間に鎌倉街道が定められ宿駅六十三ヵ所が設置された。  尾崎町では、里町不乗の森神社から証文山の東を通り、熊野神社に達していた。街道はここで右にまがり、南東へ下っていったのでこの神社の森を踏分の森と呼んでいる。ここより街道は西別所町を通り、山崎町に出て、岡崎市新堀町へ向かい、大和町桑子(旧西矢作)へと通じていた。  この位置を旧鎌倉街道と伝えており、それを証する「目印しの松」が残されている。  安城市教育委員会


尾崎一里塚跡の石碑



熊野神社の
左隅に一里塚跡石碑と鎌倉街道跡の案内板
右隅に予科練之碑
があった



永安寺


県指定天然記念物 永安寺の雲竜の松


雲竜の松
 永安寺は大浜茶(浜屋町)の庄屋柴田助太夫の霊をまつる寺です。  助太夫は1677年(延宝五)貧しい村人のために助郷役の免除を願い出て刑死したと伝えられています。  この寺を覆い包むように横に枝を広げたこのクロマツの巨木は、助太夫家の庭にあったものか、寺が建てられた時に植えられたものか不明ですが、樹齢は三〇〇年くらいと推定されます。  この松の樹形は、中心の幹が上へのびず、分かれた幹が地をはうようにのびて、その形が雲を得てまさに天に昇ろうとする竜を思わせるので「雲竜の松」と俗に呼ばれています。
樹 高  4.5メートル 幹の囲  3.7メートル 枝張り  東西 十七メートル    南北 二十四メートル



明治川神社



安城市浜屋町界隈



安城市浜屋町界隈



安城市浜屋町界隈



猿渡川
猿渡川を渡れば知立市



今回のコース(2)
池鯉鮒宿


来迎寺交差点(T字路)にある道標


従是四丁半北 八つ橋 業平作観音有



元禄九丙子年六月吉日朔施主敬白



来迎寺一里塚



来迎寺一里塚の碑



来迎寺一里塚
(南側の塚)



公民館の裏手にある来迎寺一里塚
(北側の塚)



公民館の裏手にある来迎寺一里塚
(北側の塚)



公民館の裏手にある来迎寺一里塚
(北側の塚)



来迎寺一里塚 県指定文化財(史跡)

 1603年(慶長八年)、徳川家康が江戸に幕府を開き、その翌年中央集権の必要から諸国の街道整備に着手、大久保長安に命じ江戸日本橋を起点に、東海道・東山道・北陸道など主要街道を修理させた。 この時一里(約四キロメートル)ごとに築いた里程標を一里塚・一里山などと称した。 こうした一里塚は通行者の便宜上後年になって脇街道にも造られるようになった。  塚の上の樹木は主として榎が植えられたがこの塚は代々、松といわれる。この大きさは直径約十一メートル、高さ約三メートルに土を盛り、街道の両側に造られている。
 この塚のように両塚とも完全に遺されているのは、大へん珍しい。

 県下では岡崎市の大平一里塚と豊明市の阿野一里塚などがある。



R419を渡れば知立の松並木



ここにも無量寿寺への道標が・・



歩道橋を渡る



R419を渡ってすぐ・・・



しばらく松並木が続く







しばらく松並木が続く



しばらく松並木が続く



しばらく松並木が続く



小林一茶の句碑



はつゆきや ちりゅの市の 銭叺
一茶


馬市跡の説明版







「引馬野に にほふはりはら いりみだれ

        ころもにほはせ たびのしるしに」







かきつばた 名に八ツ橋の なつかしく

       蝶つばめ 馬市たてし あととめて

                      麦人







馬市之跡碑



しばらく松並木が続く



しばらく続いた松並木が終わったところでR1を地下道で横断



地下道から出たところにある
東海道 池鯉鮒宿の碑



地下道を出たところから見た

旧東海道(一番左の細い道)      旧国道一号線(真ん中の道)      新国道一号線(一番右の道  一段高くなっている)



旧東海道沿いの家屋



旧東海道沿いの常夜灯



旧東海道沿いの呉服店の店先



池鯉鮒宿問屋場跡之碑



池鯉鮒宿本陣跡の説明版



池鯉鮒宿本陣跡之碑



「明治天皇行在所聖蹟跡碑」「秋葉常夜灯」



「明治天皇行在所聖蹟跡碑」



池鯉鮒宿外れにある道標




知立古城址 市指定文化財(史跡)

 知立城は、元来知立神社の神主であった永見氏の居館であった。同氏の系譜を記した「永見氏家譜」には、平安時代末に後白河院の北面の武士として保元・平治の乱に従軍した十三代貞春の代にすでにその名が記され、二十九代貞英まで続いたが、永禄三年(1560)の桶狭間の戦で落城した。  その後、天正年間に刈谷城主水野忠重が織田信長饗応のため約三千坪(一万u)の土地を整備した。寛永年間には将軍上洛用にと増築も行われたが、元禄十二年(1699)の大地震により倒壊した。



おまけ



八帖通り



NHKドラマ撮影記念



女優 宮崎あおいの手形



岡崎市内のマンホールの蓋
”五万石”



岡崎市内のマンホールの蓋
”矢作橋”



水準点の表示
尾崎町付近


水準点



知立市内のマンホールの蓋
”かきつばた”



知立市内のマンホールの蓋
”馬市”




名鉄 知立駅、15:47の特急に乗る。

歩数計:35,000


















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