東海道を歩く




 徳川幕府は「宿駅・伝馬制度」を定め、江戸の日本橋を起点に東海道や中山道などの「五街道」を整備しました(1601年)。東海道は、幕府のある江戸と天皇のいる京都を結ぶ重要な街道として整備されました。

 東海道には五十三の「宿場」が設けられ、大名やその一行が宿泊する「本陣」や「脇本陣」、一般の旅人が泊まる「旅籠」などの宿泊施設、人や馬の中継を行う「問屋場」が設けられました。また宿場間には、休憩用として、「間の宿」、「茶屋本陣」などが設けられ、街道沿いには松などの並木や一里(約3.9キロ)ごとの「一里塚」が設置されました。

 徳川幕府は、東海道を整備する一方で、江戸の防衛の観点から、東海道には譜代大名を配し、また大井川などの主な河川に橋を架けることを認めませんでした。さらに、箱根などの要所に「関所」を設け往来を規制しました。

 愛知県内には、江戸期の面影を残すところが多く有ります。

愛知県内の東海道(二川宿〜宮宿)を歩くことにした。

  東海道(その1)

二川宿から吉田宿
平成21年10月22日(木)

名鉄とJRを乗り継ぎ、JR二川駅に9:55到着。早速、行動開始。
まずは駅から東に約1q歩いて、二川宿の入り口にある一里塚に行き、ここから東海道歩きを開始した。


二川宿

 遠江国から三河国に入ると最初の宿場が二川宿である。二川宿は東海道33番目の宿場町で、江戸日本橋より72里余(約283q)、東の白須賀宿へ1里17町(約5.8q)、西の吉田宿へは1里20町(約6.1q)の距離だった。宿場としては小規模で、町並の長さ東西12町26間(約1.3q)、天保14年(1843)の「東海道宿村大概帳」によれば、加宿大岩村を含めて、人別1,468人(男721・女734合計合わず)、家数328軒の内本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠屋38軒だった。
 現在でも2ヶ所の枡形とともに当時の町割をほぼ残し、本陣馬場家をはじめとして旅籠屋「清明屋」、商家「駒屋」などがかつての宿場町の様子を今に伝えている。(二川宿本陣資料館パンフより)


二川宿の入り口


二川一里塚

江戸日本橋より七十二里の記載がある


妙泉寺山門


妙泉寺の説明版


妙泉寺境内の芭蕉句碑


妙泉寺境内の芭蕉句碑

「阿ちさゐや 藪を小庭の 別座敷」


二川八幡神社


二川八幡神社


二川宿の街並み

現在も街並みがよく残り、枡形に折れ曲がる道に
往時が偲ばれる。


二川宿の街並み


商家「東駒屋」

江戸時代後期の建物で、建築当初の商家の形式を残している。(豊橋市指定有形文化財)


二川宿の街並み(東駒屋)

田村家は商家を営むかたわら、問屋役や名主などを務めた二川宿の有力者だった。


脇本陣跡

本陣の補助的役割を果たし、大名の休泊が重なったときなどは脇本陣を利用した。


東問屋場跡

問屋場は宿場で人馬継立などを扱う施設。二川宿では二川と大岩の2ヶ所の問屋場が交代で勤めた。


二川宿本陣資料館


 近世交通史上貴重な文化財である二川宿本陣を保存活用し、見学できる資料館として平成3年8月に開館し、平成17年4月には、旅籠屋「清明屋」も童 子に見学出来る資料館となった。
 また、近世交通史、郷土の歴史文化を調査研究する機関として、随時企画展や講座なども開催している。
 さらに常設展示には、「東海道」「二川宿」「本陣」の3つのコーナーがあり、江戸時代の街道や宿場、本陣、大名行列などについて分かりやすく知るこ とができる。   (二川宿本陣資料館パンフより)

二川宿本陣

草津宿本陣とともに旧東海道で2カ所しか現存していない本陣建物の内の一つがあり、修復して一 般 公開している。資料館も併設されている


二川宿本陣案内図


二川宿本陣


二川宿本陣内部


「上段の間」


二川宿本陣内部


二川宿本陣内部


高札場復元

本陣資料館駐車場にあり


復元された高札場


旅籠屋「清明屋」

文化14年(1817)に建てられ、母屋・繋ぎの間・奥座敷で構成された旅籠屋建築の様式を良く残している。平成14年より改修復原工事を行い 、間取り図の残る江戸時代末期の姿に復原された。


旅籠屋「清明屋」


旅籠屋「清明屋」


 本陣資料館見学に多くの時間を割いた。なかなか見応えがある。
二川宿のハイライ トか。

再び街道歩きに・・・・・


  (10:10)


二川宿の街並み


高札場跡   二川町道路元標

幕府や大名が法令や禁令を掲示した所で、人目につきやすいところに設置された。二川宿では二 川・大岩境の枡形南側に東向きに建てられていた。


西問屋場跡


大岩村郷倉跡

郷倉は年貢米などを蓄えておいた村の共同の倉。二川宿内には二川村・大岩村にそれぞれあった。


立場茶屋跡

立場は人足の休憩したところで、二川宿西入口見付土居の東側にあり、茶店が軒を連ねていた。


岩屋へ八丁道標

 三河の国三十三霊場の二番札所岩や観音への道標として、弘化4年(1847)に建てられた。当時の道標は現在地より西の火打坂交差点あたりに合った と思われる。


渥美奥郡道標

 東海道から田原街道へと続く道の道標として命じ33年(1900)に建てられた。当時の分岐点は今より50 mほど東だった。

火打坂

 この先右にカーブしながら登坂を進んだ交差点に火打坂の標識有り。


松並木の名残(飯村の松)

 江戸時代東海道の両側には松並木が延々と続き、夏の強い陽ざし、冬の雪や寒風から旅人を守ってきた。
 この地区には昭和40年代に100本を超える松が残っていたが、松くい虫や道路拡幅などにより減少し、ここにあった最後の松も松くい虫の被害に遭い 、平成19年2月28日に伐採された。


二川本陣資料館の展示資料

 (上の写真) 1950年頃の飯村の松並木。右から2本目が最後に残った松。

(下の写真) 平成17年(2005)3月に撮影された伐採前の松。


二川本陣資料館の展示資料


二川本陣資料館の展示資料


旧街道らしい風景


旧街道らしい風景


飯村の一里塚

合流点の三角点に・・・・
江戸日本橋より七十三里


国道1号線との合流点

左側の道が旧東海道(今歩いてきた道)
右側の道が国道1号線
三角点の電柱の影に一里塚跡の碑




ここからは、トラックの往来が多い国道1号線と合流。吉田宿まで約1時間。(13:05) 





平成27年11月3日 追記




平成27年11月3日 朝日新聞 朝刊





令和2年11月13日 追記




令和2年11月13日 中日新聞 朝刊





令和2年11月16日 追記





令和2年11月16日 中日新聞 朝刊








































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